住職ご挨拶

逢善寺の由来は、この地方に古くから伝わる歴史の伝承であり、また、かつて常陸国と称された当地の歩みそのものでもあります。

関東屈指の名刹である逢善寺は、平安時代の天長三年十月、今を去る千二百年前、西暦八二六年に、逢善道人によって開基されました。折しも当地に天台僧・覚叡上人が来たり、妙法を説いて親善を交え、霊域を拡張し、教線を広め、千手観音像を本尊として安置し、鎮護国家・済世利民を祈願して昼夜怠ることがありませんでした。そのため、民衆の信仰はいよいよ篤くなり、霊験あらたかなる寺として広く帰依を集めるに至りました。

時の常陸国司・小野篁公が上洛の折、このことは淳和天皇の御耳に達し、住持覚叡は召し出されて観音霊験の詳略を奏上しました。天皇の御感銘は浅からず、勅命によって堂宇が建立され、寺田八百町歩を賜り、勅願所と定められたと伝えられています。また、淳和帝の第三皇女が千手観音への祈願によって眼病を癒され、のちに落飾して宮庵を構え、寂光院政所と称されたとも伝えられます。寺の西方五丁には姫宮坪という地があり、古くより小祠が祀られ、これを皇女の古墳墓と伝えています。

その後、幾多の変遷を経る中で、当寺が最も隆盛を極めた頃には、寺域十四町余、山内三十六か寺を擁し、本坊に出仕する僧侶も多く、末寺は三百余か寺を数えたといわれます。慶長年間には徳川幕府より三百石の朱印を賜り、十万石の格式を付与されました。当時、関東八か所の檀林(学問所)の中でも四箇寺随一と称され、その広大な伽藍の構えは雄大にして、まさに関東に冠たるものでした。

しかしながら、文政七年(一八二四年)の火災により、全山のほとんどを焼失しました。現在の諸堂は、その後の再建・移築によるものです。本堂は天保十三年、四十六世学頭講英僧正によって建立され、白木造、高欄造り、三方入母屋、唐破風向拝付き、鋼板葺きの壮麗な建築です。庫裡は平屋建て玄関付き茅葺きで、いずれも江戸の名工・泉長兵衛の手によるものと伝えられます。これらは安政年間に着工し、文久二年に落成しました。

昭和五十五年二月には、本堂・庫裡ともに、建築史上、江戸時代を代表する貴重な文化遺産として茨城県指定文化財に指定されました。

また、明治維新後の社会変革や、戦後の農地解放などにより、寺門の維持経営には大きな困難が生じましたが、歴代住職ならびに檀信徒の尽力により、広大な伽藍と寺域を守り続けてまいりました。

さらに、太田道灌ゆかりの遺構と伝えられる仁王門については、県・町村の補助、ならびに檀信徒各位の篤い浄財により、昭和四十九年に大改修に着手し、昭和五十一年十二月に落成、往時の美観を再現することができました。加えて、室町時代の遺作である仁王像二体についても、京都美術院において大修復が施され、その偉容を今に伝えております。

本堂の大修理においても、昭和五十六年より県指定文化財として六年にわたる工事に着手し、多くの皆様の助力を賜りました。檀信徒各位、事業関係者の皆様、茨城県ならびに関係市町村当局の皆様、工事指導の諸先生方、設計監理ならびに施工に携わられた方々に対し、ここに厚く御礼申し上げます。当山本堂の昭和大修理は、まさに多くの方々のお力の結晶であります。